富山藩の薬売り
正式な家系図を作成する場合は、戸籍を取得してご先祖様をたどっていきます。たいてい、幕末生まれのご先祖様のお名前まで判明します。幕末の動乱in 富山では、日本の激動の時代、富山藩も動乱に巻き込まれていたことについて書きました。今回のテーマは、富山と言えばそう「薬売り」です。
越中富山の薬売り
「富山の薬売り」の歴史は古く、元禄時代にまで遡ります。富山藩の二代目藩主・前田正甫が江戸城にいたとき、他国の藩の殿様が突然腹痛を訴えました。すぐさま、正甫が印籠より反魂丹(薬)を取り出して服用させたところ、すぐに治りました。それを目にした他国の藩主からの注文が殺到したため、正甫が自国の薬商人に命じて諸国を回って販売することになったと言われています。
薬売りという仕事は、一軒一軒訪問する粘り強さが必要です。お客と世間話を含め平均30分は話こみ、信頼関係を築いていく営業スタイル。越中の薬売りは、誠実で礼儀正しいと好感を呼んだと言われています。また、富山の薬売りは、よく働き無駄遣いをしないと他県の人に驚かれました。汗水たらして働いたお金を郷里で待つ家族に渡すまで、けっして無駄にしないという人が多かったようです。
現在、富山市郷土博物館(富山城)のある富山城址公園の敷地に、前田正甫の像があります。
ちなみに、東京の大学にいたとき、富山県出身だと告げると、大抵周囲から「富山の売薬だね。」と言われました。他県の方から見ると、やはり薬売りのイメージが強いのだなとしみじみ感じました。
薬を丸い形にする職人
薬を飲みやすい丸い形にする専門の職人がいました。その名も丸薬師。押出し式製丸器の出現によって丸薬の生産高は飛躍的に高まったそうですが、じつは、この製薬には熟練の技術が必要でした。親方に弟子入りした年季奉公した職人の手で作られていました。
腕のいい職人は、一度に1000粒も製丸できましたが、素人が見よう見まねできるものではありませんでした。この技術は、徒弟制度により親方から弟子へと受け継がれました。大正時代富山では、親方から丸薬製造を習うと、大阪の森下仁丹で修行してくる者がおおかったようです。大阪で修行をすると賃金も高くなり、羽振りのいい職人が沢山いたそうです。
富山県の名字ランキング
1位・山本 2位・林 3位・吉田 4位・中村 5位・山田
6位から20位・山崎・田中・中川・清水・酒井・高田・中田・前田・中島・高橋・松井・山口・藤井・森・沢田
ランキングには、入っていませんが、海運・漁業で栄えた射水市の新湊では、「魚」「網」など漁業にちなむものがそのまま名字になっていることが特徴的です。
(黒川総研 系図倶楽部より)