幕末の動乱 in 埼玉

正式な家系図を作成する場合は、戸籍を取得してご先祖様をたどっていきます。たいてい、幕末生まれのご先祖様のお名前まで判明します。今回は、埼玉県のはなし。

埼玉県には、川越藩・岩槻藩・忍藩・岡部藩があります。埼玉県は、幕府のお膝元であり、非常に重要な地で幕閣の中心人物が、藩主として命じられ治めていましたが、今で言うキャリアの転勤のように配置がえが頻繁に行われていました。そのため、代々〇〇家が治める藩という感じではありません。

それでは、各藩が幕末の動乱の時期にどのような対応をとっていたのか見ていきましょう。

川越藩(8万石)

現在でも蔵造りなどがあり江戸の雰囲気を楽しめる人気の観光スポットでもある川越。サツマイモも有名ですよね。

川越藩は、慶応3年、欧州棚倉より松井(松平)康英が、8万石で入封。康英は、外国奉行・神奈川奉行を務め、文久元年に、遣欧使節に従い、フランス・イギリス・オランダ・ロシアを来訪しています。なかなか、華やかな方ですね。

戊辰戦争の際には、新政府軍側につくことにし、金3000両と米3000俵と薪数百束を献納しています。

岩槻藩(2万3千石)

宝暦6年に、大岡忠光が岩槻藩を治めることになりました。有名な大岡越前守忠相の同族です。この忠光という方も素晴らしい方で、9代将軍・家重の御側衆として、家重の側を片時も離れず、言葉の不明瞭な家重の命令をかわって、幕府の要職に伝えていました。家重の寵愛を受けたが、非常に謙虚な性格で、おごることなく政治の表には出てくることはありませんでした。

岩槻藩も戊辰戦争が始まり、新政府の征討軍が進撃するといち早く服従することにしています。幕府軍追討に力を注いだようです。

忍藩(10万石)

現在の行田市にあたる忍藩。藩領のうち、秩父領は比較的裕福でした。江戸の初期から流行した観音札所巡りのお賽銭の上がりがあり、秩父絹太織の生産も盛んでした。藩も積極的に秩父絹市を保護していました。

平成29年に日本遺産として認定された、「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」。この足袋の製造は、正徳年間(1711から16)藩主・阿部正喬(まさたか)が藩士の内職として奨励したのが始まりといわれています。

鳥羽伏見の戦いの際に、幕府軍側についたが、幕府軍が惨敗すると、藩主・松平忠誠一行は敗走しました。その後、新政府軍側につきました。

岡部藩(2万石)

岡部藩は、水戸藩の尊攘派天狗等がおこした反乱を収めるため、出兵しました。その後、慶応4年に勅命により京へ上り、新政府側に従うことを表明しています。

埼玉県の県民性

県民性は、その土地の風土や歴史が深く関わってきます。埼玉県民は、堅実でおだやかな気質といわれます。幕末の動乱の時期の対応も堅実そのものではないでしょうか。

埼玉県の南部の方と東京との間に平地が広がり、明治以降、東京との結びつきは交通網の発達とともにますます強くなっています。

埼玉県といえば、日本実業界の祖・渋沢栄一という偉大な人物を輩出しています。新札のイラストのモデルになることも決まりましたね。また、東京・日本橋にある高級くだもの店の千疋屋の創業者も埼玉県民。埼玉郡千疋の郷(越谷市)の出身であり、自身の生まれそだった地名を付けたのが千疋屋です。

埼玉県の名字ランキング

1位・鈴木 2位・高橋 3位・佐藤 4位・小林 5位・斉藤
6位~20位・田中・渡辺・新井・中村・加藤・吉田・伊藤・金子・清水・松本・山田・山崎・木村・関根・山口
埼玉県南部は、東京の名字の構成とにているが、北部や西部では独特の名字もあります。群馬が近いこともあり、小林は4位。※「小林」は群馬が名字の発祥地とされています。

【参考図書:大名の日本地図 中嶋繁雄 文春新書】

(黒川総研 系図倶楽部より)