足利氏のルーツ

八幡太郎義家の子・義国が下野国足利郡足利荘に住みはじめ、子・義康のときに、足利氏を称したのがルーツ。尊氏は後醍醐天皇とともに鎌倉幕府を倒し、建武3年(1336)、光明天皇を立て、後醍醐天皇と対立します。60年にわたる南北朝の内乱の末に室町幕府が誕生。幕府の基盤が確立したのは、3代将軍・義満の頃です。義満は、「足利治乱記」に、「自らが天皇なり」というほどに、権勢を強め北山文化も花開かせました。

戦国時代の幕開け「応仁の乱」

恐怖政治を行い、将軍の権威を復活させた6代将軍・義教が、1441年嘉吉の乱で赤松満祐によって殺害されると、幕府の体制は大きく揺らぎました。1467年に将軍の後継者争いに乗じて、細川氏、山名氏が対立、一族や他の家を巻き込んで応仁の乱が始まりました。

8代将軍・義政は、政治に目を向けず、茶や能楽などをして過ごしていました。代わりに、正室の日野富子や官領の細川勝元、四職の山名持豊が政治を行っていました。そして戦乱や一揆などに嫌気がさした義政は、子ができないことを理由に、出家していた弟の義視に将軍の座を譲り、自らも出家しようとしました。義視は、再三拒みますが、義政は、「男児が生まれても後継ぎにはしない」とし、細川勝元を後見人にしました。

ところが、その後富子に男の子(義尚)が生まれます。富子は、次の将軍を自分の子にしようと画策し、山名持豊を義尚の後見人にします。こうして、勝元派と持豊派に分かれた大名同士の争いに発展していきました。

11年間にもわたる日本史上、最長の内乱。時代は、戦国の乱世へと進んでいきます。

足利氏の系図

(黒川総研 系図倶楽部より)