幕末の動乱 in 福島

正式な家系図を作成する場合は、戸籍を取得してご先祖様をたどっていきます。たいてい、幕末生まれのご先祖様のお名前まで判明します。今回は、福島県のはなし。

福島県は、会津藩・福島藩・二本松藩・棚倉藩・白河藩・守山藩・三春藩・泉藩・湯長谷藩・岩城平藩・中村藩と多数の藩に分かれていました。今回は、葵の紋を許された藩主・松平家の会津藩と会津藩の領地だった白河藩にフォーカス。

幕府が最も信頼を置いた会津藩の悲劇

会津藩の祖・保科正之は、徳川家光の異母弟です。家光から松平姓と会津23万石を与えられたことに、感謝して、将軍家への忠義を第一とするという家訓を作りました。その家訓は、幕末まで受け継がれ、幕府から最も信頼される藩となりました。会津藩は、文武両道を徹底し、礼儀正しさも他藩で評判となっていました。

弘化5年(1848)、9代目・容保(かたもり)が就任しました。容保は、美濃高須藩主・松平義建の六男でしたが、8代目・容敬の養子となり跡を継ぎました。他藩からきたので、より会津藩主らしく行動しようと意識をしていたようです。幕府の政治の安定を常に考え理性的な行動をとり、幕府から何かと頼りにされました。

慶応4年、鳥羽伏見の戦いで薩摩・長州らの新政府軍に敗れ、15代将軍・慶喜とともに江戸へ逃亡しました。しかし、新政府軍の標的となった会津は将軍・慶喜からも疎まれるという事態に陥りました。その後、会津に帰国した容保は、謹慎し20回以上朝廷に嘆願書を呈したが、聞き入れられず戊辰戦争に入り、白虎隊などの悲劇が起きます。

名君・松平定信が治めた白河藩

白河藩では、徳川吉宗の孫・松平定信名君として有名です。定信が藩主になった矢先に、東北中を襲う大凶作が発生しました。当時26歳だった定信は、「我が領内に一人の餓死者もだすな」と言い、自ら率先して質素倹約に努めました。全国から米を買い集め、皆に米を支給。失業対策に土木事業をおこしたり、ガラス・陶器・彫刻・武具を白河の特産品にしようと力を注ぎました。この実績がかわれ、老中へとなり、幕府の改革をも手がけることとなりました。これが有名な、寛政の改革です。

幕末の動乱の時期、藩主・正静は棚倉への転封を受けため、白河藩は、藩主不在のまま戊辰戦争を迎えました。白河城は、奥羽列藩同盟の軍と新政府軍の攻防の戦場となりました。

藩と県民性

県民性は、その土地の風土や歴史と関係があります。福島県は、三つの地域に区別されます。

太平洋に面した「浜通り」と呼ばれる一帯は、比較的暖かい気候と大海を見て育った影響で、開放的な気質。福島市、郡山市、白河市を結ぶ「中通り」。こちらは、「浜通り」の住民ほど開放的でなく、閉鎖的と言われるが明るい気質。そして会津若松を中心とする「会津」。頑固で義理堅く、目的を果たすまで努力する不屈の精神を持つ気質といわれています。藩を守るために集団自決した白虎隊、医学を極めた野口英世は、典型的な会津人だと思います。

福島県の名字ランキング

1位・佐藤 2位・鈴木 3位・渡辺 4位・斉藤 5位・遠藤
6位から20位・高橋・吉田・菅野・渡部・橋本・阿部・伊藤・小林・星・加藤・五十嵐・根本・松本・佐久間・佐々木
他県と比較すると、14位に星がランクインしているのが特徴的。

【参考図書:大名の日本地図 中嶋繁雄 文藝春秋】

(黒川総研 系図倶楽部より)