幕末の動乱 in 富山
正式な家系図を作成する場合は、戸籍を取得してご先祖様をたどっていきます。たいてい、幕末生まれのご先祖様のお名前まで判明します。そんなわけで、今回は幕末動乱・富山県のはなし。
長州・薩摩・会津だけじゃない。
嘉永6年(1853)ペリーの艦隊が浦賀に来航し、開国と通商を要求したことをきっかけに、日本は幕末の動乱期に入りました。そして、各地で攘夷派と開国派、倒幕派と佐幕派など様々な対立を生み、混沌とした時代が続いていくのです。
昨年、富山郷土博物館・企画展で「幕末の動乱」をテーマにした展示が行われていました。幕末といえば、倒幕を主導した薩摩藩・長州藩・幕府側の会津藩が有名です。そんな時、マイナーともいえる富山藩はどのような状況だったのか興味があり行ってきました。
日本の激動の時代、富山もやはり動乱に巻き込まれていました。藩の財政も破綻しそうな状況で、改革派の藩主・前田利声(としかた)(12代)と保守派の利保(10代)が対立していました。そんな中、安政6年に富山湾にも異国船が現れ、外国の脅威を感じていました。
そして慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いによって戊辰戦争が勃発、これを機に本藩が新政府側についてからは富山藩もそれに従い、出兵した越後では熾烈な戦いを繰り広げ、さらには南会津や庄内にまで転戦しました。
加賀100万石
加賀藩の3代目・前田利常が嫡男・光高に譲る際、二男・利次に富山10万石を三男・利治に大聖寺7万石を分け与えたことが、富山藩と大聖寺藩のはじまりです。3つの藩を数値で比較してみると、規模の違いがよく分かります。ちなみに、前田家の遠祖は菅原道真と伝えられています。
【加賀藩】石川県金沢市
102万2000石
藩政時代の領内の人口・・106万5000人(明治4年・1871)
家臣の数・・1万1850人(明治2年・1869)
【大聖寺藩】石川県加賀市
10万石(9代藩主・利之のとき幕府に10万石への高直しを願い出て許された)
藩政時代の領内の人口・・4万8000人(明治4年・1871)
家臣の数・・270人(天保15年・1844)
【富山藩】富山県富山市
10万石
藩政時代の領内の人口・・3万4200人(文化7年・1810)
家臣の数・・700人(寛永7年・1630)
藩と県民性
幕末の頃は、「藩」が領内を統治していました。いわば、藩が小さな政府でした。藩によって様々な特徴があり、それが県民性にも関係しているといわれています。たとえば、富山県の県民性としてよく挙げられるのが「働き者で、貯蓄する勤勉家」です。これは、浄土真宗の影響が大きい。そして、隣の加賀百万石に比べて、富山藩は、たったの10万石。搾取が厳しく冷害も多い状況の中で、勤勉性が生まれたともいわれています。
富山県を代表する働き者が安田財閥を築いた銀行王・安田善次郎。善次郎は若いころから倹約貯蓄に励んでいました。また、几帳面な性格で、約束の時間に遅刻した人間には会おうとしなかったとか。
【参考図書:大名の日本地図 文春新書 中嶋繁雄】
(黒川総研 系図倶楽部より)