偽系図作りの名人|沢田源内
日本に現存する系図は、偽物が多いと言われています。そして、日本史上最も手の込んだ偽物の系図を作成した人物といえば、江戸時代初期の沢田源内でしょう。源内の父は、沢田武兵衛といい、近江国坂本雄琴村(現在の滋賀県大津市雄琴)に住む農民でした。本百姓で読み書きそろばんができたので、代官の下役となり、年貢の徴収の事務を担当していました。母親は、ナリという農民の娘でした。
美形で利発な源内しかし・・
源内は、幼少の頃は、喜太郎という名前でした。幼い頃から美形で、青蓮院尊純法親王の寺小姓として仕えて大変かわいがられていました。また、記憶力が非常に良く、手当たり次第に本を読み、詩文も学びました。
あるとき、青蓮院で盗みを働いたことがばれ、余罪も次々と明るみになり追放されていました。そうして、村に帰ることになりましたが、父母の前では、本当のことを言えるはずもなく、法親王から諱の一字を賜ったといい「尊覚」と名前を改め、山伏姿でぶらぶら過ごしていました。
ところがある日そんな嘘もばれてしまい、父・武兵衛は非常に怒り、「尊覚」から「源内」と名を改めさせ、山伏姿もやめさせました。その後も、武家や公家に仕えましたが、先々で盗みなどを働いて追い出されました。
出世するための系図
次第に奉公の口がなくなり、例えあったとしても出世の見込みはない。彼は、自分の身分が低いことが原因であり、出世する為に立派な系図を持つことが大切だと考えました。
そこで、姓名を近江右衛門義綱と改め、近江の名家・六角佐々木の正統と称し、それを証明するために佐々木氏の系図を偽造したのです。
源内がこのような系図を作成し、持ち回っていることを知った父は非常に驚き、これが公になると大変なことになると考えました。そこで、源内を妻の兄・和田家に軟禁することにしました。この状況に耐えかねた源内は、逃亡し、従兄弟の畑源左衛門の所に潜伏することにしました。ここで、偽系図など様々な偽書を作成しました。
とうとう逮捕令状が・・
承応2年(1653)彼が35才の時、源内は江戸に行き、水戸藩への士官を志願します。その際に、例の偽の佐々木六角系図を献上しました。藩は、その系図の真偽を問うために、叡山の宿坊、吉祥院の僧侶を介して、六角佐々木家の子孫・佐々木義忠に鑑定を依頼しました。当然でたらめの偽系図なので、義忠は怒り源内を逮捕してもらおうと幕府に訴えます。
これを察知した源内は、一目散に近江へ逃げ帰り、名を六角兵部氏郷と改めました。また、従兄弟の家に潜伏をし、懲りずに再び偽書作りを始めました。そして「江源武鑑」20巻や「江陽屋形年譜」など刊行しました。
系図偽造業本格化
その後、源内は京都にきて、名を六角中務大輔とかえ、いよいよ「大系図」30巻という偽系図の超大作を作成します。こちらは、室町時代に京都の公家が編纂した日本の系図の定本「尊卑分脈」をもとにして、源内の一流のウソを書き加えたものです。この大系図が評判となり、次々と偽書を出版していきます。
そのうち幕府が、京都で官職位などを詐称する者を、片っ端から逮捕し処刑していくようになりました。これに驚いた源内は、身を潜めて、人の依頼に応じて系図作りを生業とし、70才でひっそりと病死しました。
最後に
源内の偽系図の作成に対しての情熱が凄い。彼の偽書は広く引用され、「浅井始末記」「浅井三代記」「異本難波戦記」などに、そのまま源内の嘘が記載されています。真実を知りたい後世にとっては、なんとも迷惑な話です。
【参考図書:史談蚤の市 村雨退二郎 中公文庫】
(黒川総研 系図倶楽部より)