イギリス王室

イギリスのEU離脱問題で、どうなることかと世界中が注目しています。そして、イギリスといえば、「王室」も世界中から注目されています。2013年のジョージ王子誕生・2年後のシャーロット王女誕生の際、日本でも大きな話題となりました。

イギリスの王室が世界で注目を浴びるようになったのは、1953年に行われたエリザベス2世の戴冠式の頃からと言われています。当時27才の若く美しい女王の誕生は、イギリスのみならず、世界中の注目の的となりました。その後も、エリザベス2世は、王室の積極的な情報発信を続け、威厳を保ちつつ、現在のようなオープンで親しみやすい王室のイメージを作り上げていきました。

さて今回は、イギリス王室の中でも、国民から慕われ黄金時代を築いた「エリザベス1世」についての話。

6人もの王妃を迎えた父・ヘンリー8世

エリザベスは、1533年にヘンリー8世2番目の王妃アンとの間に生まれています。エリザベスの誕生の3年後に、母は罪を着せられて処刑されています。ヘンリ-8世は、最終的には6人もの妃を迎えており、エリザベスには、17才上の異母姉メアリーと異母弟エドワード王子がいました。皆、実の母がすでにおらず、父の離婚や再婚でほったらかしにされている複雑な家庭環境でした。しかし、1543年にヘンリー8世が最後の王妃キャサリン・パーを迎えたことで生活の環境が改善されました。キャサリン・パーは、非常に慈悲深く聡明な女性でした。血の繋がっていない子供達に愛情を注ぎ、帝王教育を受けさせました。

1547年に父ヘンリー8世が死去。その後王位を次いだ弟エドワード6世も亡くなり、姉のメアリーが統治することになりました。

異母姉「ブラッディ・メアリー」

メアリー1世は、異母妹のエリザベスに王冠を渡さないために、早く結婚して後継者をもうけたいと考えていました。そこで、スペインのフェリペ皇太子を花婿に迎えました。周囲は、外国人しかもカトリックの国の皇子ということで反対をしましたが、押し切って結婚しました。

その後、メアリー1世は、国の宗教をカトリックとし、プロテスタントを迫害し、異端者を捕まえ改宗をせまったり、拒否した者を処刑しました。犠牲者は300人近くにものぼりました。そのため、後に「ブラッディ・メアリー」とも呼ばれるようになりました。

スペインとフランスが戦争した際に、フェリペに強く要請されたメアリーは、援軍を送るが惨敗。イギリスは大陸に唯一持っていた「カレー」をフランスに奪われてしまいます。メアリーが亡くなる前、側近に「自分が死んだら、胸を切り開いて下さい。カレーと言う文字が刻まれているでしょう」と告げたそうです。よほど、悔しかったのでしょう。

国家と結婚した「エリザベス1世」

1558年メアリーが亡くなった後、エリザベス1世が即位しました。敗戦した国を立て直そうと、中間的立場の宗教政策をとり、夏の巡行を慣習とし、貴族の館に宿泊しながら、各地で領民に触れました。5カ国語を自由に操る情報の宮廷はどのヨーロッパの国よりも教養ある女性であふれていると羨望のまなざしで見られました。

1580年、海賊フランシス・ドレイクが世界周航を果たし沢山の宝物を携えて帰国しました。彼女は、ドレイクを騎士に叙しました。これをきっかけに、世界貿易に対する気運が高まり、新しい国を発見するために若者が次々と海に挑戦しました。ジャガイモ、トマト、たばこなどがもたらされ、イギリスの食卓は一気に豊かになりました。

1588年スペインの無敵艦隊がイギリスを攻撃。この開戦で、ドレイクを副総司令官に任命し、海賊達の働きを十分に利用しました。そしてイギリスがスペインの代わりに海の制覇権を握ることとなりました。

1600年には、東インド会社を設立し、東洋との貿易に本格的に乗り出しています。1601年に、一部の特権階級に与えられていた輸出入税独占権を廃止すると宣言し、このときの演説は、「黄金のスピーチ」と末永くたたえられています。

エリザベス女王は、多数の功績を残し、イギリス史上で最も良い時代の一つといわれる時代を築きました。そして生涯独身だったエリザベス1世の後は、スコットランドの王ジェームズ6世がジェームズ1世としてイギリス王を兼ねることになり、スコットランド直系の血統が途絶えると、オランダ総督を王に迎え、その直系が途絶えるとドイツのハノーヴァーから君主を迎えています。日本の万世1系の皇室とは、この点では異なりますね。

【参考図書:イギリスの王室 石井美樹子 河出書房新社 イギリス王室1000年の歴史 指昭博 カンゼン】

(黒川総研 系図倶楽部より)