幕末の動乱 in 愛知県

正式な家系図を作成する場合は、戸籍を取得してご先祖様をたどっていきます。たいてい、幕末生まれのご先祖様のお名前まで判明します。今回は、愛知県の幕末の話

愛知県は、なんといっても織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑ゆかりの地。吉田藩・田原藩・西尾藩・西端藩・刈谷藩・挙母藩・岡崎藩・西大平藩・尾張藩・犬山藩と多数の藩が存在しました。

家康の故郷・岡崎藩(5万石)

岡崎藩といえば、徳川家康。三河国(愛知県)の岡崎城主・松平広忠の嫡男として誕生。幼少期は、今川氏の人質として過ごし、その後は、松平元康として今川義元の部将となります。桶狭間の戦いで義元が討死すると、三河国を統一し、織田信長と同盟を結び、徳川家康と名乗りました。

岡崎藩は、戊辰戦争の際は、新政府軍に協力しました。しかし、一部の藩士は、脱藩して幕府側についています。

吉田藩(7万石)

現在の豊橋市にあたる吉田藩。正徳2年(1712)、大河内信祝(のぶとき)が入封。その後、本荘資訓そして、また大河内信祝の子・信複(のぶなお)が入封。以降、幕末まで大河内家が治めています。

最後の藩主・信古は、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が惨敗した時、慶喜と共に大坂城にいましたが、なんとか脱出し、吉田に戻ってきました。新政府東征軍が吉田を通過すると、尾張藩の取り計らいで新政府軍側につき、兵糧方として力を注ぎました。

尾張藩(61万9千石)

織田信長ゆかりの尾張。慶長12年、家康の九男・徳川義直が61万9千石で治めることになりました。家康は、壮大な城郭を築くために加賀の前田利常など有力大名20家に、城郭建造の工事を割り当てます。また、藩の財政として木曾山を与えられ、毎年2、3万両の収入がありました。61万9千石でしたが、実収入は90万余石と言われるほど裕福な藩でした。

この裕福だった藩が年間30万両以上の赤字に悩む財政難に陥った時の名君が慶勝。側近を固め、大胆な財政の改革に取り組みました。年間2万両だった藩主の小遣いをなんと、1000分の1にし、不要な建物を売却。藩士の給与を半額。そして、町人や大百姓540人を城内に招き、藩の財政を赤裸々に打ち明け、協力を依頼。町人や大百姓は、感激をし献金や債権放棄を申し出る者が多数でました。

戊辰戦争が始まり、尾張藩は、江戸へ向けて進軍する有栖川宮熾仁親王の護衛にあたりました。他にもさまざまな部隊を結成し、新政府軍に協力をしました。

愛知県の県民性

県民性は、その土地の風土や歴史が深く関わってきます。愛知県の県民性は、三河と尾張に分けられます。

三河人は、非常に統一が取れているが閉鎖的で排他的で農民的な考えをし、尾張人は、己の力を信じ道を切り開いていく、商業的な考えをするといわれます。

名古屋は江戸時代に入って商業が盛んになりました。尾張藩の財政が逼迫し、藩主は領民に勤倹節約を奨励しました。これが名古屋の貯蓄志向を生んだとも言われています。しかし、7代・尾張藩主の徳川宗春は、商業を重視し、8代将軍・吉宗の享保の改革にあえて逆らい、倹約ではなく贅沢や消費を奨励。これにより、損得勘定がしっかりでき、合理的にものごとを判断できる愛知県民の気質が生まれたのかもしれません。

愛知県の名字ランキング

1位・鈴木 2位・加藤 3位・伊藤 4位・山田 5位・近藤
6位~20位 山本 佐藤 渡辺 田中 水野 中村 林 杉浦 小林 吉田 森 石川 高橋 竹内 後藤

他県と比べると、ベスト3の「鈴木」「加藤」「伊藤」の割合が大きいのが特徴です。

【参考図書:大名の日本地図 中嶋繁雄 文春新書】

(黒川総研 系図倶楽部より)