二人の天皇
今年は、「令和」という新元号になり、現在85歳の天皇陛下から息子の皇太子徳仁親王に譲位することとなっています。天皇の譲位は約200年ぶりとのことで、時代の節目を感じます。今回は、南北朝の時代の天皇についての話。
鎌倉幕府が滅びた後、日本は、大変な事態が起こりました。南朝と北朝で二人の天皇が存在するという南北朝時代です。
後醍醐天皇は、天皇中心の政治を復活させようと、ひそかに討幕計画を立てていました。しかし、それがばれてしまい、島根県の隠岐に流されてしまいます。同時に、御醍醐天皇から後村上天皇へと変わります。
ところが、御家人だった足利高氏と新田義貞が鎌倉幕府を攻撃し、滅ぼします。そして御醍醐天皇も隠岐から脱出し天皇に返り咲きました。そして、天皇自ら政治を行おうとします。これが、「建武の新政」です。
ちなみに足利高氏と新田義貞は、ルーツは源氏です。源義家→義国→義重(新田)・義康(足利)つまり、鎌倉幕府を作ったのも源氏。倒したのも源氏というわけです。
足利高氏は、倒幕の功績により、後醍醐天皇から天皇の諱名「尊治」の「尊」という字を賜り、足利尊氏と以後名乗るようになりました。その前の「高」という字は、北条高時の「高」という字を賜ったものでした。
話をもどしますが、後醍醐天皇の行った政治は公家よりで、倒幕に貢献した武士たちに褒美となる土地を与えませんでした。そのことに不満を抱く武士は大勢いました。そんな中、地方の武士が反乱を起こしました。尊氏は、弟の直義が反乱に巻き込まれていることもあり、天皇に反乱を鎮圧する許可を求めました。しかし許可が得られなかったので、無許可で鎌倉の反乱軍を鎮圧。そしてそのまま、鎌倉にとどまりました。
このことに怒った後醍醐天皇は、新田義貞に尊氏の討伐命令を出し、尊氏と義貞は箱根で戦いますが、義貞は破れてしまいます。その後、尊氏は御醍醐天皇の忠臣・楠木正成を湊川の戦いで破り、京都を制圧します。そして、すぐさま光明天皇を即位させました。
後醍醐天皇は京都を脱出し、奈良の吉野にいき、自分が正当な天皇であることを主張します。
こうして京都の北朝、吉野の南朝という2つの朝廷ができてしました。この南北朝時代は、60年ほど続き、足利義満の代で統一されました。
現在の天皇家の系図
現在の天皇陛下で125代目とされています。この125人の中には、北朝の天皇は含まれていません。天皇家の系図にも北朝が記載されているので、北朝にも天皇が存在したことは否定されているわけでは、ありません。
江戸時代の初期までは、北朝が正統であると考えられていました。これを覆したのが、水戸藩の編纂した歴史書「大日本史」です。これによると、天皇家の三種の神器が南朝にあったことを根拠に南朝が正統であることと主張しています。そして水戸藩の主張は、明治時代にになっても影響力があったため、1911年天皇の裁断により、南朝が正統と決まりました。
(黒川総研 系図倶楽部より)