仙台藩

正式な家系図を作成する場合は、戸籍を取得してご先祖様をたどっていきます。たいてい、幕末生まれのご先祖様のお名前まで判明します。

今回は、仙台藩について。仙台藩といえば、伊達政宗。当初は、現在の宮城県と福島県の大半を領有していました。慶長5(1600)年に仙台城を作り始め、8年に城に入所。

政宗の時代「買米仕法」といって年貢以外の余剰米を農民から買い上げ、これを江戸に送り売却し利益を上げるという手法で、農民にも利益があり藩にも莫大な利益がありました。
【仙台藩】 62万5千石
藩政時代の人口・・81万8千人(寛保2年)(1742)
家臣の数・・7530人(明和年間)(1764~72)

江戸三大騒動の一つ伊達騒動

歌舞伎の演目でも行われる伊達騒動。山本周五郎の「樅の木は残った」では、悪人と考えられていた原田甲斐が実は、江戸幕府からお家を取り潰すために自らの命を差し出した忠臣として描かれています。

内容としては、三代・綱宗が酒乱で遊郭での遊び過ぎ立ったため、幕府より逼塞の命が下りました。そこで、2才の亀千代が藩主になりました。その後見人として兵部宗勝田村宗良がつきました。宗勝は、国老・原田甲斐宗輔を仲間に引き入れ勢力を増していきました。そんな中、宗勝に抵抗した伊達安芸宗重。領地の争いが発端となり、幕府に対して宗勝の弾劾訴訟を起こしました。寛文11年に老中・酒井忠清邸で宗重甲斐が呼ばれ、最後の取り調べが行われた直後、甲斐が突如宗重を切りつけ殺害。甲斐は酒井邸の家臣に斬り殺される。そうして、騒動の元凶となった宗勝は、土佐藩へ流されたました。そして、伊達藩は、何のおとがめもなかったと言う話。

幕末の動乱期

4代目綱村(亀千代)が、二万両の赤字を残しましたが、名君と名高い5代目・吉村が、「倹約政策」+「買米」を積極的に進め、吉村が引退する寛保3年(1743)には、藩庫には準備金が蓄積されるほどになりました。

しかしその後の藩の財政は悪化の一途をたどっていきます。大凶作・大飢饉に見舞われます。天保12年(1841)藩士は、内職をしなければやっていけないところまで追い詰められていきました。幕末の動乱の中、仙台藩主達は、現実を認識ができず、藩の政治の主導権は、国老・但木土佐ら佐幕派の手に握られました。

慶応4年(1868)仙台において、仙台藩をトップとする新政府軍に敵対する奥羽越31藩の同盟が成立しました。しかし、仙台藩を初め多くの藩が各地で新政府軍に敗退します。戊辰戦争後、62万5千石から28万石にまで減らされてしまいました。

藩と県民性

県民性は、その土地の風土や歴史とも関係してきます。宮城県の県民性は、自分のことは自分で決める。そして、他人の意見に左右されない頑固さがあると言われます。これは、仙台藩62万石に統治されていたことと関係があるかもしれません。巨大な藩だったので有力な家臣はそれぞれに小さな大名でした。そのため、自意識が強く、団結心はあまり強くなかったようです。

宮城県の名字ランキング

1位・佐藤 2位・高橋 3位・鈴木 4位・佐々木 5位・阿部
6位から20位・千葉・伊藤・菅原・渡辺・斎藤・遠藤・三浦・小野寺・加藤・菊池・木村・今野・及川・熊谷・吉田
伊達家が東北の大半を支配していた時期もあり、仙台市には東北各地から人が集まっていました。そのため、東北の名字を集約したようなランキングになっています。

追記

宮城県の仙台は、私の夫が長く住んでいた土地でもあります。東北ではポピュラーな芋煮会。川辺で行うバーベキューならぬ芋煮会が楽しかったらしく、よく話を聞きました。自分の事は自分で決め、弁護士として道を切り開いていった彼には、ピッタリの場所だったのかもしれません。私自身も、訪れたことがあります。都会的かつ落ち着いた雰囲気もある素敵な場所でした。一番驚いたのは、牛タンの厚みです。これぞ牛タンという分厚さ&おいしさ。また、機会があれば訪れたいと思っています。

(参考図書:大名の日本地図 中嶋繁雄 文春新書)

(黒川総研 系図倶楽部より)