津軽と南部

正式な家系図を作成する場合は、戸籍を取得してご先祖様をたどっていきます。たいてい、幕末生まれのご先祖様のお名前まで判明します。今回は、青森県の弘前藩・黒石藩・七戸藩・八戸藩について。

謀反を起こして誕生・弘前藩【10万石】

南部藩の支配地だったが、家臣だった津軽為信が謀反を起こして、土地を奪ってできた藩。津軽為信のルーツは藤原氏でかつて津軽六郡を領していたようです。つまりひそかに祖先の地奪還のチャンスを狙っていて戦国の動乱に乗じて、実行したのかもしれません。

弘前藩は未開地が多く積極的に新田の開発に取り組んでいきました。しかし、藩の財政は次第に困窮していきます。明和3年(1766)大地震・疫病・大洪水が続き、天明3年(1783)の大凶作により、津軽の地は餓死者であふれかえり、死者は8万人を超えました。

戊辰戦争の際、奥羽列藩同盟を脱し、新政府側につき津軽家は、1万石を得ました。

また、弘前藩の分家・黒石藩があります。弘前2代目・津軽信枚(のぶひら)の二男・信英(のぶふさ)が、明暦2年(1656)黒石5千石で分家。8代目・親足(ちかたり)の時、1万石に増やしてもらいました。

盛岡藩の分家・七戸藩【1万1千石】

盛岡5代藩主・南部行信の弟・政信が5千石で分家。5代目・信鄰(のぶちか)のときに、6千石を追加してもらった。戊辰戦争の時は、本家と共に奥羽列藩同盟に加わり新政府に対抗し、1千石減らされました。

相撲好きで遠い薩摩と繋がりを持つ・八戸藩【2万石】

盛岡藩3代目藩主・南部重直が後継者を決めずに亡くなったため、幕府の命令により遺領10万石が分割され、弟・重信が8万石をもらって本家を相続し、弟・直房に2万石与えられたことで、八戸藩が誕生。

8代目・信真は、男子に恵まれず跡継ぎとして薩摩藩の島津信順(のぶゆき)を迎え入れました。薩摩藩主・島津重豪とは、相撲好きを通して交流が深かったようです。

戊辰戦争では、本藩同様、列藩同盟に加盟するが、実は薩摩藩主家との関係で新政府軍に協力的だったとか。

藩と県民性

県民性とは、その土地の歴史や風土と深い関係があります。青森県民は、辛抱強く・勤勉と言われています。しかし、西の津軽人気質と東の南部人気質の2つに分けられます。津軽人は一般に目立ちたがりでおしゃべり、南部人は引っ込み思案で無口といわれます。一つの県に、全く別の気質が存在している理由は、これまた藩政時代にまでさかのぼります。南部藩の家臣であった津軽為信が謀反を起こして土地を奪い、弘前藩が誕生しました。ところが、明治維新の廃藩置県でこの二つの藩が一つの県にされてしまったというわけです。

青森県の名字ランキング

1位・工藤 2位・佐藤 3位・佐々木 4位・木村 5位・成田
6位から20位 斎藤・中村・田中・高橋・三上・三浦・葛西・鈴木・小笠原・山田・吉田・坂本・山本・藤田・伊藤
全国で唯一工藤が1位にランクイン。鎌倉時代初期に伊豆から移り住んだ工藤一族が繁栄したことを物語っています。

【参考図書:大名の日本地図 中嶋繁雄 文春新書】

(黒川総研 系図倶楽部より)