盛岡藩と一関藩

正式な家系図を作成する場合は、戸籍を取得してご先祖様をたどっていきます。たいてい、幕末生まれのご先祖様のお名前まで判明します。今回は、岩手県の盛岡藩と一関藩についての話。

南部の国は、東も西も金の山「盛岡藩」

盛岡藩は、20万石で藩主の南部家は、甲斐源氏の末裔で、八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光の流れといわれています。寛永四年(1664)三代目・重直が後継者を決めずに亡くなったため、幕府の命令で弟・重信が、盛岡藩藩主として8万石。三男・直房に八戸2万石と分割されました。(※八戸藩については、青森県のページにて記載)その後盛岡藩は、新田開発により10万石に戻し、後に20万石とされます。

この盛岡藩、とても裕福な藩でした。地形が、平地より山地の方が多く、松・すぎ・檜・黒檜・栗などの木材が有名です。あの豪華な中尊寺金色堂南部檜で作っています。

三陸沿岸では、豊富な海産物がとれました。干アワビなどは、九州長崎に送られ、外国へ輸出。なども高値で取引されました。

多くの鉱産物にも恵まれ、黄金・鉄・銅なども採掘され、南部藩士・大島高任は、釜石郊外に洋式高炉を建設し、年間100万貫の製鉄に成功しています。

この裕福な藩も、天明3年(1783)、東北地方の大凶作にあえぎ、餓死者が続出しました。

幕末の動乱・盛岡藩

戊辰戦争の際、盛岡藩は仙台藩とともに、奥羽列藩同盟の中心的立場に立ちます。情報不足のため、同盟諸藩の中で、一番遅くに停戦をしました。そして、藩主・利剛(としひさ)は、謹慎処分。後継者の利恭(としゆき)は、13万石を持って家名相続が許されました。

仙台藩の支藩・一関藩

3万石の一関藩の藩主として、当初君臨していたのは、あの伊達騒動の張本人・伊達政宗の末っ子・兵部宗勝。(※伊達騒動については、仙台藩のページに記載しています。)騒動を招いた責任で、宗勝は、領地を没収され土佐藩へ行くことに。その後、政宗の孫・田村建顕が大名の配置換えで、岩沼から一関を治めることになりました。

藩と県民性

県民性は、その土地の風土や歴史とも関係してきます。岩手県民は、根気強くたくましいといわれます。そして、北と南で南部藩・一関藩と分かれていたので、互いに対抗意識があるといわれています。

北県のほうは、冬は雪に覆われ家にこもってひたすら読書にふけるから、無口で物事を論理的に考える人が多い。代表的な県北出身の人物として、宮沢賢治・石川啄木、新渡戸稲造等があげられます。一方、県南は、比較的米作に適しています。そのため、そこの人々は多少、社交的で商売っ気があると言われます。

また、岩手県は、原敬、斉藤実、米内光政、鈴木善幸と4人も総理大臣を輩出しています。山口県出身の首相のうち5人は明治維新の功労者ですが、岩手県出身の首相の多くは何の背景もなしに政党や軍部の中、自力でのぼりつめた人々です。このような彼らの粘り強い努力は、根気強い岩手県民の気質からくるものかもしれません。

岩手県の名字ランキング

1位・佐藤 2位・佐々木 3位・高橋 4位・千葉 5位・菊池
6位から20位・伊藤・阿部・菅原・及川・鈴木・吉田・小野寺・熊谷・中村・藤原・菊地・三浦・斉藤・小原・千田
鎌倉幕府の重臣だった「佐々木」と「千葉」がランクインしているのが特徴的です。また、菊池と菊地の両方ともランクインしています。

追記

大学時代の友人が岩手県出身でした。わんこそば、盛岡冷麺、短角牛、岩泉のわさび、沼宮内の豚肉など様々な岩手の美味しい特産品をお土産として渡してくれた思い出があります。私の夫も仙台に在住していたとき、わざわざ岩手県まで盛岡冷麺を食べに行っていたと言っていました。ぜひ、機会があれば、私も本場の盛岡冷麺を食べたいと思っています。

また、宇宙誕生の謎を解き明かす、大規模な素粒子衝突実験装置のリニアコライダーも気になっています。北上山地への誘致が実現するのかどうか注目しています。

【参考図書:大名の日本地図 中嶋繁雄 文春新書】

(黒川総研 系図倶楽部より)