江戸大名の家紋

礼儀を守るための目印

平安時代後期の公家社会に、貴族達が自分の牛車の目印として生まれた家紋。(※家紋の歴史については、家紋|日本のデザイン美に記載)武士の時代になると、戦場での武功を示すために一気に多様化しました。そして、江戸時代になると、家紋は、儀礼的な面で重用され、家格や家系をあらわすものとなりました。

江戸大名は、一国以上を持つ「国主」、城を持つ「城主」、城を持たない「無城」と格付けされていました。江戸城に詰め寄る場合も、階級により通される部屋が違いました。参勤交代の道中、大名行列同士が、出会うこともたびたびありましたが、格下の大名行列は止まり、殿様が駕籠の戸を開けて会釈をする必要がありました。そのため、各大名は、家紋に詳しい家臣を行列の先頭につかせ、向こうからやってくる大名行列の家紋を見極めさせていました。

幕府は、大名や旗本にそれぞれの代表紋を提出させ、各大名は紋付きを着けて江戸城に参上しました。諸大名の家紋を熟知する「下座見役」を置いて、登城する大名の判別を行い、いち早く、上役にその大名の到着を報告させていました。

大名の系図本が人気

16世紀中頃に、大名の本姓、本国、系図、家紋などが記載された「武鑑」が刊行されます。江戸にやってきた武士や、武家社会の情報を得たい商家などの間で人気になり、諸大名の家紋は広く一般に知られるようになりました。

葵紋のブランディング成功

徳川家康(三河国の岡崎城主・松平広忠の嫡男)が「」を家紋としたのは、三河国加茂郡が、「葵」紋とする京都の賀茂神社の神領地だったこと、三河武士が葵紋を用いたこと、松平氏も賀茂神社の神官だったことに由来していると考えられています。

将軍となった後、天皇から桐紋が下賜されたが、辞退。葵紋にこだわることで、葵の紋=将軍家のものとし、徳川家の権威を高めることに成功しました。

【参考図書:家紋から日本の歴史をさぐる インデックス編集部 ごま書房】

(黒川総研 系図倶楽部より)