源氏のルーツ

「あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり」と詠われたものの、奈良時代後期には、律令制度とは名ばかりで、全国各地に荘園という貴族の私領が急速に増加し、皇室の公領は減少の一途をたどり、皇室の財政は悪化していました。

第45代・聖武天皇は、全国に国分寺と国分尼寺を建設させ、奈良の大仏を造り、第50代・桓武天皇は、東北の地陸奥の平定や、長岡京から平安京へと二度も遷都を繰り返し、膨大な国家予算を使いました。

このような財政状況で、50人もの子供を作った第52代・嵯峨天皇は、皇位継承者として親王6人と内親王12人だけを天皇家に残し残り32人を臣籍に降下させました。これは、当時としても前代未聞の事態です。このときに、皇子は、源姓を賜りました

この「源」のルーツは、中国の魏王朝の歴史を記した、「魏書」のなかの「源賀伝」です。源賀は、太武帝の一族である河西王の子で、臣籍降下して将軍に任命されるとき、皇帝から、「源」の姓を与えられました。これに倣ったという説があります。

嵯峨源氏

皇籍を離れた32人の多くは、高位につてき左大臣や侍従を歴任しました。なかでも、紫式部の「源氏物語」の主人公光源氏の実在のモデルではないかと言われている源融は、左大臣にまで昇りつめ、子孫も繁栄しました。

その後の源氏の諸流として、仁明源氏・文徳源氏・清和源氏・陽成源氏・光孝源氏・宇多源氏・醍醐源氏・村上源氏・冷泉源氏・花山源氏・三条源氏・後三条源氏・後白河源氏・順徳源氏・後嵯峨源氏・後深草源氏・亀山源氏・後二条源氏・後醍醐源氏・正親町源氏があります。

清和源氏

なかでも、源氏と言えば清和源氏と言われるほど栄えた源氏。第56代清和天皇の皇孫の多くが臣籍に降下しました。中でも繁栄したのは、天皇の第六皇子貞純親王の子孫です。貞純親王の子は、天皇の六男の子という意味を込めて、六孫王と称し、平将門や藤原純友の討伐軍の副将軍を務めています。その後、臣籍に降下して源朝臣経基と改名し、清和源氏を興しました。

武家の棟梁とよばれた八幡太郎義家・鎌倉幕府を開いた源頼朝・室町幕府を創設した足利尊氏を輩出しています。江戸幕府の徳川家康も家系をねつ造して、清和源氏と自称したといわれています。

清和源氏の系図

(黒川総研 系図倶楽部より)