藤原氏のルーツ

大化の改新の藤原鎌足を始祖とする系統

天智天皇より、病床にあった中臣鎌足が、「大化の改新」以来の功績をたたえられて賜った姓。中臣氏は、古事記の一番最初に登場する神様・神天御中主大神の子孫といわれ、代々天皇家の祭祀を司る家柄でした。

「藤原」のルーツは、鎌足邸のあった大和国高市郡の地名です。

藤原四家のルーツ

藤原鎌足の息子・不比等は、娘を文武天皇の皇后とし聖武天皇が誕生、そして聖武天皇の皇后として娘を嫁がせるなどと、天皇との姻戚関係を深め、政治権力を強めていきました

不比等には、4人の息子もいました。

・長男・武智麻呂は、京都の南に屋形を構えていたので、「南家」と呼ばれ左大臣となります。
・二男房前は、北に屋形を構えていたので、「北家」と呼ばれ、中務卿となります。
・三男・宇合は、式部卿(文官の人事担当の長官)となり「式家」と呼ばれます。
・四男・麻呂は、左京大夫(京の警察の長官)となり「京家」と呼ばれます。

この四兄弟は、流行した疫病で亡くなってしまいます。

「南家」

仲麻呂は、淳仁天皇の即位に功績があり、同天皇に寵愛され、「恵美押勝」という名を賜りました。しかし、道鏡を寵愛した孝謙天皇が、仲麻呂をうとましく思いはじめます。そして764年恵美押勝の乱を招くこととなり、戦死。結局、南家は、政権から遠ざけられてしまい、仲麻呂の弟・巨勢麻呂のみ公家として残りました。
熱田神宮の宮司を務める家系のルーツであり、平清盛と親交のあった信西の家系のルーツでもあります。

藤原四家の中で最も繁栄した「北家」

良房の代では、文徳天皇と清和天皇をバックに、ライバルであった、伴氏・橘氏・菅原氏などを政治の中枢から追いやり、臣下として初めて摂政という位につきます。ここから藤原氏による摂関政治の幕開けです。

そして、1018年の平安京に栄華を極めた藤原道長。摂政の地位につき、3人の娘を天皇に嫁がせ、この時代の政治を思うがままに動かした人物です。

道長の詠んだ有名な歌「この世をば 我が世とぞ思う望月の 欠けたることも なしと思えば」彼は、非常に多忙かつ時間帯も不規則な生活を送っていたため、糖尿病を患っていました。この歌を詠んだ時も、実は病気で目がほとんど見えていなかったとか。

道長の子孫が、近衛家・一条家・二条家・九条家・鷹司家となります。これらは、最高の公家の家格とされ、摂政・関白の地位を握っていきました。

「北家」の武家

平将門を討伐した藤原秀郷。この功績によって、鎮守府将軍に任命され、関東全域に勢力を広げていきました。奥州藤原秀衡は、魚名の子孫といわれています。そのほか、大友氏や結城氏など多数の有力武家を輩出しています。

(黒川総研 系図倶楽部より)