明治の改暦

日本が、明治になってから大きく変わったもののなかに、暦の変更があります。明治6年から、それまでの太陰太陽暦ではなく、太陽暦(グレゴリオ暦)へと変わりました。今回は明治の改暦の話。

慌ただしい改暦

明治の改暦は、なんと実施の半月前に一般市民に知らされました。急に改暦した理由としては以下の理由が考えられています。

1)国際的に外国と同じ太陽暦を使用しないと不便
2)旧暦に比べ簡便
3)旧暦は迷信などの弊害がある
4)人々の心を一新するため
5)給料の支払いが年俸制から月給制となり、旧暦では、3年に1度閏月があり、13ヶ月分の給料を支払必要があったため

暦に関わる業者の人々も、直前まで改暦はデマであろうと疑っていたぐらい、急な出来事でした。

福沢諭吉の改暦の功績

準備期間がほとんどなく、本来ならば明治5年12月3日が、新しい暦では明治6年1月1日になってしまったので国内は混乱しましたが、福沢諭吉などの学者は合理的な太陽暦を支持し、普及させるための「改暦弁」を著しています。「改暦弁」は、改暦と同時に発売するというタイミングの良さと、説明が分かりやすく誰にでも理解できるように書かれているので爆発的にヒットしました。改暦断行にあたって、政府は広報活動をしていなかったので、この「改暦弁」がなければ、改暦は失敗していたかもしれないといわれています。ちなみに、この本の印税は莫大な金額に上り、これが慶應義塾の財政に大いに役立ちました。

こよみの語源

こよみは、日読(かよみ)の意味で、日をかぞえることが語源。月の満ち欠けは早くから暦の基となった。古事記にでてくる、月読命は、月をよむことにより暦を司る神とも言われています。

西洋のカレンダー(CALENDAR)は、カレンヅ(CALENDS)叫ぶという語からできました。祭司が小高い丘から日没時の地平線に新月を発見すると、角笛を吹いて月が改まったことを人々に叫び知らせたことが語源。

現在でも、カレンダーなどに大安などの六曜が記載してあり、結婚式は仏滅をさけたりします。旧暦は、今でも現在の私たちの生活に根付いた文化となっているのではないでしょうか。

【参考図書:日本の暦 岡田芳朗 新人物往来社】

(黒川総研 系図倶楽部より)