幕末の動乱 in 新潟
正式な家系図を作成する場合は、戸籍を取得してご先祖様をたどっていきます。たいてい、幕末生まれのご先祖様のお名前まで判明します。
新潟県は、長岡藩・村松藩・新発田藩・三日市藩・黒川藩・村上藩・三根山藩・与板藩・椎谷藩・高田藩・糸井川藩と11藩もありました。今回は、現在の現在の上越市高田藩(15万石)と長岡市の長岡藩(7万4千石)の幕末にフォーカス。
高田藩の名君・榊原政令
文化7年(1810)、三代藩主・榊原政令が就任。この人物が、凄いやり手。様々な事に精力的にとりくみ、結果を残しています。
家格にとらわれず人材を登用し、財政再建のために、皆に倹約を徹底させました。また、藩士の内職を盛んにさせ、竹かご・凧・盆灯籠が高田の名産として信州や関東に売り出しました。
文化13年に妙高山地獄谷の熱湯をひき温泉場をつくっています。これが現在の妙高高原赤倉温泉です。幕末には、藩士に洋式兵法を学ばせ、殖産政策が成功し、藩庫に常に8万俵の米が蓄えられる状態になりました。天保飢饉の際には、一人の餓死者も出さなかったのです。むしろ、幕府に5千俵の米を献納し、他藩に米の貸付まで行いました。
新政府軍につき、長岡城を攻め入る
慶応4年に戊辰戦争が始まり、新政府軍は、広島や北陸の藩を率いて高田に到着しました。最後の藩主・政敬は、新政府軍に従います。奥羽越追討の勅令が下り、高田藩は新政府軍の基地となります。高田藩は、新政府軍に軍用金2万両を献上します。そして藩兵は、長岡城や会津に攻め入ります。そのため、藩主・政敬は、賞典禄1万石を賜りました。
全国に名を轟かせた長岡藩
戊辰戦争のとき、長岡藩は、12代藩主・牧野忠訓(ただくに)が治めていました。長岡藩が全国にその名を轟かせたキーパーンは、なんといっても藩の執政を担った河井継之助。派閥にとらわれない人事を行い、貧しかった藩の金庫に、10万両の金を積み上げるなど数々の功績を残します。また、多くの洋式兵器を買い、藩の軍の近代化を推し進めました。慶応4年新政府軍が江戸に進撃している際には、継之助は江戸藩邸の財宝を処分し、このお金でオランダの武器商から大量の兵器や爆薬を買い込み、船につみ藩に持ち帰りました。
長岡城は新政府軍の手に渡りましたが、その後、奪回することに成功。4日間は、持ちこたえることができましたが、再び落城し、長岡藩は7万4千石あった領地を没収されます。しかし、明治元年に、忠訓の弟・忠毅(ただかつ)に2万4千石が与えられます。
未来を見据えたお金の使い道
その後ご存知「米100俵」の話。貧困にあえぐ長岡藩が支藩・三根山藩から米100俵をもらうが、大参事・小林虎三郎が、その米を換金して学校を建てる資金にあててしまいます。周囲は、驚き不満を口にしたが、虎三郎は、「今食えないから教育に力を入れるのだ。教育をおろそかにすると益々食えなくなる。」と説得しました。その結果、長岡からは、大日本帝国憲法の起案に尽力した法学者・渡辺廉吉、東京帝国大学総長・小野塚喜平次、連合艦隊司令官長官・山本五十六など、近代日本の俊英が続々と輩出。
藩と県民性
県民性は、その土地の風土や歴史と深く関係しています。日本一の米どころ新潟。米作りは、88回もの手がかかると言われるくらい、たくさんの人出が必要で手間もかかります。怠け者はおのずと排除されるので、新潟県民には勤勉で正直な人が多いといわれます。
米100俵の話も、辛抱強い新潟県民だから耐えて成果を出すことができたのかもしれません。
どこに住んでいても県民同士の団結力は強い。殊に新潟県から大臣が出ると全員が一致団結して推すようです。
新潟県の名字ランキング
1位・佐藤 2位・渡辺 3位・小林 4位・高橋 5位・鈴木
6位から20位・斉藤・阿部・長谷川・山田・五十嵐・田中・伊藤・本間・丸山・中村・加藤・吉田・金子・山崎・池田
他県と比較すると、8位に長谷川がランクインしていることが特徴的です。五十嵐は、新潟では「いからし」と読むケースが多く、三条市の地名をルーツとし、イカタラヒヒコノミコトがこの地を開墾したことからきています。
追記
新潟のご当地グルメといえば、「へぎそば」と「タレカツ丼」が有名です。「へぎそば」とは、布海苔がつなぎとして使われていて、独特の食感とのどごしが楽しめます。カツ丼といえば、福井のソースカツ丼もご当地グルメで有名ですが、新潟のタレカツ丼は、甘塩っぱいタレが特徴です。
そして、新潟といえば「亀田製菓」。地元では、「サラダホープ」が定番で人気なのだとか。
【参考図書:大名の日本地図 中嶋繁雄 文藝春秋】
(黒川総研 系図倶楽部より)