平氏のルーツ

第50代桓武天皇の皇子・葛原親王の長男・高棟王が825年に平朝臣を賜り、臣籍降下したのが、桓武平氏の始まりです。

平氏の「平」は、桓武天皇が造営した「平安京」の「平」がルーツです。

公家として栄える平氏

平高棟の子孫は、公家として栄えていきました。「平氏にあらざるものは人にあらず」という言葉を残した平時忠が有名です。平家が源氏に滅ぼされたとき、時忠は、流罪として現在の石川県に行きました。子孫は、石川県の輪島市に住み時国姓を名乗り、江戸時代には、上時国家と下時国家にわかれ、能登の名家として現在まで続いています。

武家政権を打ち立てた平清盛

桓武平氏の中で、最も繁栄した系統は、高棟王の弟、高見王の流派です。高見王の子・高望王は、892年に、平朝臣姓を賜り、末裔には、平清盛がいます。清盛の祖父・正盛は、白河上皇に近づきます。上皇も、源氏の力をおさえるために平氏の力を利用しようと考えていました。正盛の子・忠盛(清盛の父)は、功績を挙げ内裏への昇殿を許されました。これは、当時公家にとっても憧れの地位でした。そして、ご存じ清盛は、異例の早さの出世でついには天下人にまで上り詰めていきました。

親皇と称し、朝廷に反旗を翻した平将門

平高望は、上総介として現在の千葉県に赴任し、その息子達は、関東地方に住み勢力を伸ばしていきました。長男の国香は、東北の蝦夷鎮圧軍の将官となり、現在の茨城県で武力を蓄えました。

これに対抗したのが、国香の弟・良将の子将門でした。将門は、京に行き、藤原一門に仕えましたが、出世の糸口がつかめずに故郷に戻ってきました。そこで、土地の争いで伯父である国香を殺害してします。一族の騒動が火種となり、関東地方の騒動となりました。将門は、関東の国司を追放してついには、自らを「平親皇」と名乗りました。これは、全く地方のことをかえりみない政治を行っていることへの民の不満が将門の勢いを後押ししたのではないでしょうか。

結局、平将門は、940年に、国香の息子・貞盛藤原秀郷によって滅ぼされました。将門の首は、京に運ばれましたが、突然宙に浮かび、東国へ飛び去り現在の東京の大手町に落ちたという伝説があります。その場所に将門塚が造られました。なんとも恐ろしい伝説。

源氏と平家

源氏と平家が交代で政権を握っていっているという説があります。

歴史を振り返ってみると、まず平氏が登場し、次に源氏が現れます。平清盛・源頼朝そして、平家出身の北条氏。清和源氏の足利尊氏。織田信長は、平家を自称。徳川家康は、清和源氏を自称。といった具合です。

日本人は、結局「源氏と平家」が好きなんでしょうね。その根底にあるのが、天皇への崇拝の念ではないでしょうか。

(黒川総研 系図倶楽部より)