日本の四代姓|源平藤橘

今回は、前回の氏姓の話で軽くふれた、日本の四大姓の「源平藤橘」にフォーカスをあてます。

古代は、物部氏(朝臣)、蘇我氏(臣)、大伴氏(宿禰)、紀氏(朝臣)などが、国政を牛耳っていました。彼らが衰退したのち、藤原氏(朝臣)が登場。橘氏(朝臣)が一時政権を取りましたが、再度藤原氏に奪い返されました。平安時代後期には、武家の平氏(朝臣)源氏(朝臣)が競い合い、鎌倉幕府が成立しました。

家系図で繋がりをもちたい人が多い人気の「源氏」

最初の例は、第52代嵯峨天皇が、8人の子たちを源氏としました。
おもな源氏は、4系統あります。

嵯峨源氏】:第52代嵯峨天皇の皇子・源融(とおる)からはじまる

宇多源氏】:第59代宇多天皇の皇孫・源雅信からはじまる

清和源氏】:第56代清和天皇の皇孫・源経基からはじまる
源頼朝以来、各地で活躍した武士の先祖は、清和源氏です。
甲斐の武田や美濃の土岐や明智、下野で活躍した足利などが有名です。

村上源氏】:第62代村上天皇の皇孫・源師房からはじまる

 

祇園精舎の鐘の声・・代々受け継がれる物語にもなった「平家」

第50代桓武天皇のひ孫高望からはじまる
武家平氏】:関東地方で繁栄し、千葉・三浦などの家が生まれた

公家平氏】:京都で活躍し、交野、西洞院などの家が生まれた

伊勢平氏】:平氏の中でも、平家と呼ばれるのは、伊勢平氏といわれる平清盛の系統だけです。そのため、「平氏物語」ではなく、「平家物語」という。

四代姓の中で一番早く成立した「藤原氏」

大化の改新の藤原鎌足を始祖とする系統
病床にあった中臣鎌足が、「大化の改新」以来の功績をたたえられて賜った姓。藤原は、鎌足邸のあった大和国高市郡の地名です。

「この世をば 我が世とぞ思う望月の 欠けたることも なしと思えば」の歌も有名な道長氏。彼は、非常に多忙かつ時間帯も不規則な生活を送っていたため、糖尿病を患っていました。この歌を詠んだ時も、実は病気で目がほとんど見えていなかったらしい。

江戸時代の本居宣長も疑問を持った「橘氏」

県犬養三千代が朝廷出仕の功績によって賜った姓。また、この三千代への橘の姓は、もともとは彼女一代限りとされていたが、彼女の子である葛城王・佐為王が臣籍降下したときに、「橘」姓を賜りました。

日本四代姓という割には、橘氏のなかで有名なのは、橘諸兄・清蔭(源平合戦以降だと、楠木正成・前田利家)などで、四代姓の一つに数えられるほど繁栄した一族とはいえないのではないか。このような疑問を、江戸時代の本居宣長ももっていたようです。橘氏が四代姓の一つに入った理由は以下のように考えられます。

【理由1】橘姓は、女性が単独で姓を天皇から賜った珍しいケースであり、彼女は生涯で6人の天皇に仕えていた。そして、中臣鎌足の二男・藤原不比等と再婚し、子が聖武天皇と結婚をして皇族以外から出た初めての皇后・光明皇后となっている。

【理由2】橘諸兄のひ孫にあたる橘嘉智子は、嵯峨天皇の皇后になり、その子はやがて第54代仁命天皇になっている。

偽物家系図ができる理由

日本の四代姓「源平藤橘」どれも素晴らしい人物を輩出して一族を繁栄させています。これらの人物と同族になりたいと願い多くの家が自身の家系のルーツを偽ることもおきました。そのため、日本人の家系図は偽物が多いといわれています。

(黒川総研 系図倶楽部より)