そばのルーツ

日本の伝統食の「そば」は、江戸前と言われる「うなぎ」や「にぎり寿司」よりもはるかに長いのです。なんと、幕末には、江戸に4000軒近くのそば屋さんがありました

日本でソバ栽培がはじまったのは、5世紀。記録として残っている最も古いものは、「続日本書紀」。こちらには、元正天皇が、722年の大干ばつに見舞われた際、大麦や小麦とともにソバを栽培するように命じたと記載があります。ソバは、荒れた土地でも育つ貴重な作物ですが、あまり注目されていなかったようです。次にソバの栽培勧告がなされれたのは、平安時代になってからでした。粉食文化のなかった日本は、小麦やソバの栽培には、消極的だったのかもしれません。回転式の石臼が農山村に普及したのは、江戸時代中期以降です。

ちなみに、ソバという名前は、稜(角)の意味で、実の形が三角形で3つ角があるためといわれています。

当初は江戸もうどんが主流

江戸は、そばのイメージが強いが、当初は江戸の町も「うどん」が主流でした。ソバは、農山村で米や小麦がとれないからソバを蒔くので、貧しさの象徴のような雑穀でした。また、当時の製粉技術や製麺技術が未熟であり、味や食感がうどんに及んでいなかったのかもしれません。

江戸に4000軒のそば屋

江戸は、幕府が始まって120年辰頃には、人口が100万人を超える大都市に成長していました。人口の半数以上が商工業者や職人で、全国各地から様々な人が集まっていました。そして、独身男性が多かったことから外食文化が発展していったと言われています。そば屋も手軽なファストフードということで広く浸透していきました。屋台では、手軽な二八蕎麦がいたるところにあり、価格は16文と相場が決まっていました。その値段は、延享期から万延までなんと100年以上も変わらなかったそうです。

また、白米食が普及していた江戸では脚気が大流行していました。脚気とは、ビタミンB1が不足する病気ですが、ソバは、ビタミンB1を豊富に含んでいます。そのこともそば屋の繁盛の要因となったようです。

藪そばの系図


蕎麦にはいろいろな流派があります。更科・砂場・藪・東家・一茶庵。藪そばのルーツの蕎麦屋である「蔦屋」は、明治初期の全盛期には約1600坪の規模の店であったというのだから、凄い。

一世を風靡した蔦屋は、明治39年に突然廃業しました。理由は不明ですが、三代目・三輪伝次郎が相場で失敗したためともいわれています。なんとも、惜しい話ですが、藪そばの系譜は、ちゃんとと受け継がれました。

明治13年に、浅草蔵前のそば屋「中砂」の四代目・堀田七兵衛が、神田区連雀町にあった蔦屋の支店を譲り受け、「神田藪そば」がスタートします。

ちなみに、「神田藪そば」 「並木藪蕎麦」 「池の端藪蕎麦」は初代・堀田七兵衛の血縁関係にあたるので、藪御三家といわれています。並木藪蕎麦の2代目は、漫画美味しんぼにも掲載されていたことでも有名ですよね。秘伝のつゆの製法について公開していました。

「上野藪そば」は七兵衛に腕を認められていた鵜飼安吉が、「連雀町藪そば」から初めてのれん分けとして独立開業した店です。

「浜町藪そば」は、七兵衛の信頼の厚い弟子が4人いて、連雀町の四天王といわれていた。そのうちの1人多田与四太郎が開業した店です。

ちなみに、東京の大学にいた際、毎月父が富山から上京してきて、ご飯を食べに連れて行ってくれました。並木藪蕎麦も連れて行ってもらいました。懐かしい思い出です。

【参考図書:蕎麦屋の系図 岩崎信也 光文社】

(黒川総研 系図倶楽部より)